芥川龍之介の本で
蜜柑というのが好きだ
内容は端的に表すとこうだ
都会の喧騒に疲れ切った主人公が
品川発~二等列車にのり
そこにくたびれた、田舎娘が
三等列車の切符を握りしめ
やってくる
隣にすわったその田舎娘をみて
主人公は、ああ、
くそ田舎娘が隣に座った
これはこの世の罪悪の象徴のようだ
といって、嫌悪するのだが
動き出したトンネルを超えた
田園広がる平原を抜けたところで
その認識はいっぺんする
トンネルを抜けた後の田園
田園を超えた後の緑新炎
すべてを超えた先に、田舎娘のために
丁稚奉公で都会に出される田舎娘のために
兄弟及び近所の人間が、列車に蜜柑を投げてよこす
その投影
幻影
美しすぎて息をのむような文章表現だ
私もそんなように見ていた世界の景色を表現したいのだが
それはまだまだ
文章で表現することに拘りたい
のも私のわがままか?
世界は動画で伝えるようなメディアに分かりやすさが
伝えやすさが優先されていってる認識がある
文章に価値がなくなる?
文学に意味がなくなる?
歴史的価値が意味がなくなる?
走りながら考える
老いと
平然と戦った文学を作り上げたいのである
老人と海がベースだ
サンチャゴはニシレンの若者だ
難しくてもいい
私が生きた証として
福岡国際マラソンに挑み続けた
そういう歴史を誰かに積み上げたい
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