ラストびわ湖マラソンへ

以前の私は、びわ湖毎日マラソンに対して、価値を見出せなく、真剣に取り組めなかった

2009年が初出場で関西にきたついでに出場したような舐めた感じになっていた

当時の2008年に上京して九州の田舎者から大阪のと都会に来た馬鹿な若者からしたら
まだ九州人感覚が抜けきれなくて
九州のフルマラソンのメインは、防府でタイムをゲットして別大で登竜門
そして福岡国際にすべてを出し切る。

そういう感覚で育ってきた
そういう価値観を青春的に抱いて育ってきた
陸上部の将来設計としてそういう理想にもたれて生きた

福岡国際でダメなら別大に全力で調整した。だからびわ湖は当時は遊びだった。

2008年、大阪に営業職で就職した
地元に、家族と兄弟と、女を置いて、俺は一人で2008年に大阪に来ていた
社会を舐めていて、どうせここで耐えれば九州に転勤させてもらえるという人事の甘い言葉を信じて都会へきた

が、世界は甘くなかった。
そういう甘いことを言って九州に返すといった人事部長はタイに転属された
別れ際の言葉が「俺には大阪の近所の少年野球チームからプロ野球選手を出すのが夢だった」
だった。もう誰も恨めなかった。そうこうしてるまに私は女にも捨てられた

いきなり飛び出してきた都会で私は一人になった
すべてを知り尽くしていた世界がいきなり暗黒に変わって幕が下がった

暗さを照らしたのはヒラマスだった。枚方のチームに親友?ができた
すごく単純で馬鹿なのに速くてモッテモテのおっさん。
その有名人のおっさんのブログに私がたまに出ることが幸せだった。
そのおっさんが毎週末、王将で5時間ぐらい私に練習帰りに語るのだ
「びわ湖でいかにうまく走るか」
関西人はびわ湖毎日マラソンに出ることが憧れらしい
俺でゆうところの福岡国際マラソンみたいなものか?

誰かと一緒に走りたい。気持ちを共有したいと初めて思った
自分でこじらせている何かではなく、この人の価値観と勝負してみたかった

そう思ってこじらせた2010年2013年なんかから出始め
2016年以降~ずっと出場している

初めは練習チームのほかのメンバー達がいう
「どうしてもびわ湖に死ぬまでに出る」
びわ湖に出たくせにイップスで収容されている
そんなことがどうしても、青い芋くさくて嫌だった。どうもおっさんの青春というものは、青臭くて消化が悪い。

だが、私の中にそんな
ズランナーが住み着いてもう13年になる。始めた見たのは2008年の福岡国際のAの控室だった
そんな選手と一緒に走りたくて
2016年肋骨が折れてるのにロキソニン20錠飲んで出場した

そんなことも今では良い思い出です

これがこの素敵な師匠と走れた最後だった

そこからは、私の中に入り込んだ、青臭い芋はさらに発酵して臭気を放ちだした
びわ湖という樽に浸かり、時間をかけて熟成され続けた

ある時から、先輩の後を追うように全力でびわ湖に取り組むようになった私に
びわ湖は最後の競技場に死闘の相手を準備してくれるようになった

かくして初出場から12年物の青臭い芋は熟成されて
びわ湖の雨も晴れも寒さも暑さも知った、樽臭さが染みたウィスキーとなった

青臭い、青春馬鹿も、10年追っかけると熟成される

いよいよ最後になってしまった

これまでいい選手や面白い選手も
どんな人も、このレースから消えては満ちて
ひいては去って

そしてついに私一人になった

そういうことにはならないが

最後のびわ湖
あの酒樽に付け込んだ青臭い芋ももう終わりだ

もちろんベストを食らいつくすが
この才能の無い、体躯も特に秀でていない

無価値さの象徴を美意識の先に

最後の競技場でだれを俺に準備してくれているのか
最後ののど越しまでこのびわ湖毎日マラソンを楽しみたい

誰ではなく
全部私の中で熟成されてきた
すべて飲みつくして
最後にしたい。

場所が変われば樽が変わってしまう
びわ湖はどうやってもこれが最後だろう

大阪京都で
私のこの青臭い、青春にかけてきた関西でも思い出の一滴

すべてを知っている樽に捧げたい

みなが目指して
足切られて
収容されて

それでも美しかった湖面を最後に私の描ける表現をすべて文字で表せるように
代弁して楽しみつくしてくることで

また、一緒に走れる
気がする

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